長嶋一茂 うつ病 パニック障害

母親の死をきっかけに、うつ病も発症した長嶋一茂さん

長嶋一茂さんは、東京都大田区田園調布出身で、ナガシマ企画に所属している、日本の元プロ野球選手(内野手)で、タレント、スポーツキャスター、野球評論家、俳優でもあります。
そんな長嶋一茂さんが、パニック障害であったことは広く知られており、その闘病記をエッセイとして出版もしています。

また、近年では、母親の死をきっかけに、うつ病も発症したそうです。

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長嶋一茂さんの芸歴、経歴は?

長嶋一茂さんは、田園調布中学校、群馬県吾妻郡六合村(現:中之条町)にある白根開善学校中等部で中学時代を過ごし、高校受験では桐蔭学園高等学校にも合格しました。

しかし、「父親と同じ立教で野球をやりたい」と、立教高等学校(現・立教新座高等学校)に進学し、高校時代から再び野球を始め、3年生時に甲子園埼玉県予選の準決勝まで進出しました。
しかし、所沢商業高校にサヨナラ負けを喫し、その後は立教大学に進学しています。

立教大学硬式野球部では東京六大学リーグ通算101試合出場、382打数86安打、打率.225、11本塁打、54打点を記録し、4年生の時に2季連続ベストナイン(三塁手)に選ばれました。
1987年のドラフト会議でヤクルト、大洋の2球団が1位指名で競合し、その抽選の結果ヤクルトが長嶋一茂さんとの交渉権を獲得しました。

その後に契約金8000万円、年俸840万円(金額は推定)で入団合意に至りました。

1988年、プロ初安打をホームラン(神宮球場での巨人戦、ビル・ガリクソン投手から)で飾ったため、「ミスター二世」として注目を集めました。
野村克也さんがヤクルトの監督に就任した1990年は出場機会が減少し、野村克也さんは「ウチのお荷物。親父(茂雄)も俺が嫌いだから、恐らく家で親父の前で俺の悪口ばかり言ってただろう」と語っていたそうです。

1991年には、6月初旬からスタメンで起用されると、6月9日の広島戦で3安打5打点の活躍をしました。
そして、その試合を皮切りにチームが球団新記録の12連勝をし、この12試合中の長嶋一茂さんの成績は、打率.282、2本塁打14打点OPS.934と、まずまずの成績を残したため、ついに開花したと言われました。

しかし、13連勝を狙った6月26日の巨人戦では、3点リードの9回裏にまずい守備を連発して逆転サヨナラ負けを喫しました。
そのため、スポーツ紙では、長嶋に始まり長嶋で終わった12連勝と呼ばれました。

1992年は、マイナーリーグ・1Aベロビーチ・ドジャースに野球留学しました。

そのため出場機会がなく、チームの14年ぶりの優勝には貢献できませんでした。

1993年、父・茂雄さんが監督に就任した読売ジャイアンツへ金銭トレードで移籍し、ヤクルト・野村克也監督は「長嶋さんから欲しいと言われたら仕方がない」とコメントしています。
しかし、本当は厄介払いができてホッとしていたともいわれています。

キャンプから外野の練習を行い開幕戦は6番・レフトでスタメンを勝ち取り、同年の古巣ヤクルト戦では、原辰徳さんとの守備交代で、「4番、サード長嶋」がコールされました。
1994年において、レギュラーシーズンは46試合に出場しました。

しかし、日本シリーズはベンチメンバーのみであり、試合に出場する事はありませんでした。

1995年は右ひじの故障で一軍出場はゼロに終わり、1996年の春先には、不振のジェフ・マントさんがスタメンを外されると積極的に起用され、低打率ながら3本塁打を記録しました。
しかし、当時の守備コーチ土井正三さんからバント練習を厳しく指導されたことに対して「いらねぇよ!あんな奴!!」と暴言を吐いてしまいます。

そのため、球団から罰金50万円と二軍降格に加え、出場停止処分を受けました。

同年オフには、父・茂雄さんから「一茂、残念だけどお前は来年の戦力構想に入っていない」と戦力外通告を受けました。

その後、広島、近鉄、オリックス、日本ハムが獲得の意向を見せたが、「これ以上迷惑をかけたくない」と発言し、現役を引退し、この引退について父・茂雄さんは「プロの世界だって1年限りの世界ですから」と発言しています。

また長嶋一茂さんは、この巨人時代にパニック障害になったことを後に告白しています。

長嶋一茂さんは1996年、ジャイアンツ1軍選手でしたが、不調のため5月に2軍行きを命じられました。
その際、不調の中でうつうつと生活していた時、知人のマンションの屋上で花火大会を見物していた際、突然地面が大きく揺れるような強いめまいを感じます。

これが最初のパニック発作であり、2度目の時は過呼吸発作を起こしました。

その際には、救急車で東京女子医大の救命救急センターに担ぎ込まれており、そこでパニック障害と診断され、安定剤の投与を受け、ぺーパーバックによる呼吸法も習ったそうです。
その後、パニック障害に良いという様々な試みをしますが改善する事無く、その年に、ジャイアンツより戦力外通告を受けたため、そのまま退団することとなります。

その後は、明石家さんまさんの誘いもあり、芸能活動とスポーツリポーターをするようになり生計を立てていきます。

しかし、その後もパニック障害は治まらなかったようです。

そして、13年後の2008年、自身が企画した映画「ポストマン」の撮影時、ロケ地が千葉県であったため、毎回の行き帰りにアクアラインを使いました。
そのため、毎回そこで死ぬような恐怖体験をし続けることとなり、うつ状態が悪化し、強い希死念慮も生じるようになっていってしまいます。

更に悪いことに、服用していた抗うつ薬が合わず、アクチベーション的な希死念慮も強く加昧されてしまっていたようです。

その後、長嶋一茂さんは14年間の闘病生活の後、試行錯誤の結果、生活リズムの改善などから、パニック障害を克服していきます。
そして長嶋一茂さんは、パニック障害から立ち直った現在では、あれだけ長い間苦しめられたパニック障害について、

「自分が、パニック障害を患うことによって、同じような精神障害に苦しむ人たちの気持ちを慮ることができるようになったのは、私にとって何より多きことだと思う。」

などと語っており、今ではなって良かったと言っています。
長嶋一茂さんはパニック障害になった事によって、人間的に大きく成長し、幅、深みが増したのだと思います。

これからもタレントやスポーツキャスターとして活躍していってほしいなと思います。

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