真矢ミキさんの場合。【うつ病の芸能人・有名人】

過去に軽いうつ状態だったことを告白している真矢ミキさん
真矢ミキさんは、オスカープロモーションに所属している、日本の女優であり、元宝塚歌劇団花組トップスターです。
真矢ミキさんは、「あきらめないで!」のキャッチフレーズが有名で、力強くポジティブな印象です。
しかし、実際は落ち込みやすく、繊細な性格なようで、過去に軽いうつ状態だったことを告白しています。
真矢ミキさんの父方の祖父で、佐藤宇吉さんは山形県庄内町廻館の大店呉服店の跡取りでした。
その後、低価格運賃を売りにしたバス会社を設立しましたが、生来の放蕩癖と世界大恐慌が原因で、真矢ミキさんの父が4歳の時に彼の方から離縁を言い渡したそうです。
真矢ミキさんの父は貧しい生活を送っていましたが、その中でも自ら働いて、大学の進学資金を稼ぎました。
そして、進駐軍譲りの英語力を買われ、民航空運公司に入社し、KLMオランダ航空のディスパッチャーを経て、設立直後の東亜航空に就職し、最終的には日本エアシステムの重役になりました。
真矢ミキさんの母方の実家は、現在の大成建設の下請けとして、日本の鉄筋コンクリート造りの創成期から鉄筋コンクリート専門の工務店をしており、横浜競馬場などを建設した実績があります。
真矢ミキさん自身は、4歳まで広島市で育ち、父親の転勤により各地を転々としており、中学校卒業まで8回もの転居を繰り返したそうです。
そして、「日舞を習いたい」ということから、中学時代から宝塚コドモアテネに通うことになります。
1979年に宝塚音楽学校に入学し、1981年、67期生として宝塚歌劇団に入団しました。
真矢ミキさんは、大地真央さんへ憧れていたことから、豊中市立第二中学校を卒業した後、1979年に宝塚音楽学校に入学し、1981年、67期生として宝塚歌劇団に入団しました。
入団時の成績は21番であり、同期には、元娘役スターで日本航空123便墜落事故で死亡してしまった女優の北原遥子さん、1982年~1985年まで月組トップ娘役だった黒木瞳さん、1991年~1993年まで月組トップスターだった涼風真世さん、1989年~1992年まで星組トップ娘役だった毬藻えりさん、演劇プロデューサーで、活弁士で、日本舞踊講師でもある幸風イレネさんがおり、現役の中では雪組組長の梨花ますみさんがいます。
真矢ミキさんは、初舞台当初から注目を集めており、歴代花組トップスターに勝るも劣らない、個性派スターとしての道を歩んでいきます。
特に1992年~1995年にかけては、2番手ながらトップとほぼ同等な扱いを受け、芝居・ショーともに活躍し、安寿ミラさんとの男役同士のコンビは当時呼び物となっていました。
1995年には、安寿ミラさんの退団により「エデンの東」で花組トップスターに就任し、その相手役は純名里沙さんが務めました。
そして、純名里沙さんの退団後は千ほさちさんを相手役に迎えました。
真矢ミキさんは、独特な長髪のヘアスタイルやナチュラルな舞台メイク、独自の着こなしや、退団直前につんく♂プロデュースによる日本武道館でのソロコンサートを開催したり、篠山紀信さん撮影による写真集の出版を行うなど、宝塚に新しい風を積極的に吹きこんだため、ヅカの革命児とまで言われました。
そして、1998年10月5日、「SPEAKEASY」東京公演千秋楽をもって、宝塚歌劇団を退団し、宝塚退団後に鳴り物入りで芸能界入りしました
。しかし、真矢ミキさんが38歳のときに事務所から戦力外通告を受け、どん底を経験し、知人からリクルートスーツを借りて、自ら「踊る大捜査線」のオーディションを受けたそうです。
そして、2003年、このオーディションを這い上がり、念願の芸能界復活を果たしました。
真矢ミキさんは、2008年7月1日にブログでバレエダンサーの西島千博さんと結婚することを発表。
また、同年12月22日に入籍していたことが明らかになりました。
そして、2009年4月4日、明治神宮で挙式します。2009年には、第20回日本ジュエリーベストドレッサー賞を受賞し、2011年には第28回ベストジーニスト2011協議会選出部門を受賞しています。
真矢ミキさんは、30才を過ぎたばかりの頃、悩みが深すぎて食べるという行為が困難になったそうです。
ごはん粒を一口のみ込むことすら難しいような状態だったそうで、体重が維持できるなら液体や錠剤だけで栄養を取りたいと本気で思っていたそうです。
顔を洗うたびに、手のひらの中で痩せてだんだん小さくなっていく自分の顔や、日に日に減っていく体重が怖くてたまらなかったそうです。
また、宝塚歌劇団を退団後には、レッスンや稽古がない日々をどう過ごせばいいのかわからなくなってしまい、今度は食べることがやめられなくなってしまう状態になってしまったそうです。
どちらの状態においても、完全に心のバランスを失っており、バランスを失いすぎて食事の適量がわからなくなっていたと、真矢ミキさんはその当時のことを語っています。
また、真矢ミキさんは、自身から宝塚という化粧や衣装を取り去った途端、誰もがそっぽを向いてしまったような気がして、それがうつの原因になっていたのではとも分析しています。
そして、真矢ミキさんは、あるとき友人に「なんで生きてるかわからなくなった」と話したところ、「じゃ、とりあえず私はあなたが必要だから生きててよ」と言われたそうです。
この言葉がポジティブに生きるきっかけになったということで、今でもその当時のやり取りを昨日のことのように思い出すと、語っています。
一見すると、軽い調子の言葉ですが、その重々しくない言葉が逆に真矢ミキさんに生きる力を与えたように思います。
真矢ミキさんはメンタルの回復力が半端ないと、真矢ミキさんのマネージャーさんは語っていますので、今後も芸能界でさらに活躍されていくのでしょう。
健康に気を付けて、頑張っていってほしいなと思います。