中島らもさんの場合。【うつ病の芸能人・有名人】

破天荒な人生を送った、中島らもさんは、長年、躁うつ病にも悩まされていました。
中島らもさんは、本名は中島 裕之といい、日本の小説家、劇作家、随筆家、広告プランナー、放送作家、ラジオパーソナリティ、ミュージシャンでした。
兵庫県尼崎市出身であり、広告代理店社員のコピーライターとしてキャリアをスタートしました。
中島らもさんの経歴、芸歴
その後、劇団・笑殺軍団リリパットアーミーを主宰し、俳優としても活動しました。
そのほか、自主的団体「全国まずいもの連盟」会長を自称しました。中島らもさんは、2004年7月、友人のライブコンサートに飛び入り参加した後、神戸の飲食店の階段から転落して頭部を強打し、脳挫傷により死去しています。
享年52歳であり、あまりにも破天荒な人生を送った、中島らもさんは、長年、躁うつ病にも悩まされていました。
中島らもさんは、兵庫県尼崎市の国鉄(現JR西日本)立花駅近くにおいて、2人兄弟の次男として生を受けました。
後に中島らもさんは「躁うつ病は父親から、アル中は叔父から受け継いだ」と語っています。
尼崎市立七松小学校に入学し、10歳の時に、母親の勧めで神戸市立本山第一小学校に転入しました。
中島らもさんはスポーツ嫌いであり、友人の野球の誘いを断って偉人伝を読むような子供だったということです。
中島らもさんは、名門進学校の灘中学校に、約150人の全合格者中8位の高成績で合格しますが、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」や、ヒッピームーブメントに衝撃を受け、酒、たばこ、そして薬物にも手を出し始めてしまいます。
これらの「悪さ」のために、成績が急降下し、授業もテストも受けずに「番外地」で灘高校を卒業することになりました。
1年間のフーテン生活の後、中島らもさんはフーテン友達によって、大阪芸術大学芸術学部放送学科の受験に同行し、合格したため、同校への入学を決めます。
この頃から急に饒舌になったかと思うと、翌日には寡黙になる、といった不安定さを見せたということです。
1975年に大学を卒業し、その卒業論文のテーマは「放送倫理規定」でありました。
この間の1970年、神戸山手女子短期大学の学生だった長谷部美代子さんと、三宮のジャズ喫茶「バンビ」で知り合い、4年間の交際の末、1975年に結婚し、2LDKのアパートで新婚生活をスタートさせました。
1976年、印刷会社の株式会社大津屋にコネ就職し、同社で5年間勤めます。
「パンクで一発、当てるつもりで」ロックバンド・PISSを結成します。
中島らもさんは、1980年、「フリーのコピーライターで食っていく覚悟をきめ」大津屋を退職し、また、「パンクで一発、当てるつもりで」ロックバンド・PISSを結成します。
1981年、中島らもさんは藤島克彦さんの紹介で広告代理店の株式会社日広エージェンシーに再就職しましたが、あまりにも仕事が暇なため、電柱から次の電柱まで歩く気力が無くなり「これはうつ病だ」と直感します。
そこで、最寄の精神科に飛び込み、渋る医師を説得してリタリンを処方してもらうことで一旦寛解したものの、依存を断ち切るために断薬してしまったため、症状を再発させています。
1987年、中島らもさんは宮前さんに独立を申し出て、快諾を受け、日広エージェンシーを退社し、同年7月、「有限会社中島らも事務所」を設立し、作家活動を本格化させます。
多忙な人気作家となるも、飲酒や薬物の摂取がもたらす酩酊から着想を得ていた中島らもさんは、やがて連続飲酒を繰り返すようになってしまいます。
アルコール依存を自覚していた中島らもさんは極度の疲労感、食欲の減退、体重減少、嘔吐、失禁、異常な尿の色、黄疸を自覚するようになります。
そして、1988年秋、アルコール性肝炎と診断され、大阪府池田市内の病院に50日間入院することになり、後にこの体験を基に、小説「今夜、すべてのバーで」を執筆しています。
1994年には、かつて頓挫したPISSを再結成し、そのPISSではボーカルとギターを担当しました。
また、2003年に結成された「らも& MOTHER’S BOYS」ではボーカルとサイドギターを担当するなど、音楽のジャンルでも活動の場を広げるようになります。
この頃、持病の躁鬱病に加え、ナルコレプシーを発症し、これらの症状のため、時間概念の喪失、運動障害、躁状態がもたらす万能感からくる支離滅裂の言動がたびたび見られるようになりました。
そして、減薬と入院治療によって、ある程度の回復を繰り返すていましたが、その間も飲酒は続けていたようです。
そして2004年7月15日、神戸市内でおこなわれた三上寛、あふりらんぽのライブに飛び入り参加し、その終演後に三上寛と酒を酌み交わし別れた後、翌16日未明に飲食店の階段から転落して全身と頭部を強打してしまいます。
そして、脳挫傷による外傷性脳内血腫のため、神戸市内の病院に入院します。
その後、15時間に及ぶ手術を行うも、脳への重篤なダメージにより深刻な状態が続き、自発呼吸さえ出来ない状態に陥ります。
入院時から意識が戻ることはなかったため、事前の本人の希望に基づいて、人工呼吸器を停止しました。
同月26日午前8時16分に享年52歳で死去しています。
中島らもさんの場合は10年以上躁うつ病
そんな中島らもさんが、初めてうつ病を発症したのが30代の頃でした。中島らもさんは、とにかく博学で、うつ病についての知識も医者顔負けであったため、受診した精神科で「リタリン」を自ら所望し、処方してもらい、服用後一週間ほど寛解したようです。
その後、40代に入り、ほとんど家に帰れないほどのハードワークを続けた後に、うつ病を再発し、この時は自殺念慮に襲われたそうです。
そして、死を決意して仕事部屋を出ようとしたちょうどその時、様子を見に来たアシスタントにより一命を救われたそうです。
その時、アルコール依存症も再発していたため、ただちに入院、50日間の療養生活を経て復帰しました。
しかし、中島らもさんは単なるうつ病ではなく、躁うつ病でした。そのため、まさに躁うつ病の典型という症状で、長い間うつ病の症状だけが出た後、ある時突然躁転したそうです。
躁うつ病の診断が正確に下されるまでには平均で8年ぐらいかかるが、中島らもさんの場合は10年以上経っていました。
ただ、中島らもさんは決して病気から逃げようとはしませんでした。
常に自分を第三者的視点からながめ、こっけいな自分をおもしろがるという、心のゆとりを常にキープしていました。
物書きを生業に選んだ人間だからこその業なのかもしれません。
しかし、自分を客観的に見つめる視点は、うつに悩む人の参考になるのではないでしょうか。