武田鉄矢さんの場合。【うつ病の芸能人・有名人】

「101回目のプロポーズ」の頃、うつ病の症状が出始めた武田鉄矢さん
武田鉄矢さんは、日本の歌手・俳優・タレント・作詞家であり、フォークグループ・海援隊のボーカル・リーダーでもあります。
代表曲に「母に捧げるバラード」、「贈る言葉」、「あんたが大将」、「思えば遠くへ来たもんだ」などがあり、名誉学士(福岡教育大学)、名誉漢字教育士(立命館大学)、長崎市亀山社中記念館名誉館長等の名誉学位・称号をもっています。
そんな武田鉄矢さんは、2014年10月に、うつ病だったとの報道がされました。
うつ病の症状が出始めたのが1991年のころだったそうで、ちょうどドラマ「101回目のプロポーズ」が大ブームになっていたころです。
武田鉄矢さんの芸歴、経歴
武田鉄矢さんは1949年(昭和24年)、福岡県福岡市博多区に生まれました。
武田鉄矢さんの母・武田イクさんと父・嘉元さんは熊本県阿蘇郡南小国町中原字樋ノ口の出身であり、両親は博多で結婚し、父親が天涯孤独となっていた母親の家に婿養子に入りました。
母方は武田氏の末裔と伝わっており、その家紋は丸に割菱となっています。
武田鉄矢さんは、福岡市中央区大濠に在する、福岡大学附属大濠高等学校を受験するも不合格となりました。
しかし、歴史も古い当時筑紫郡の2番手高校(福岡県立筑紫丘高校が1番難関であり、現在においても福岡3大名門校である)福岡県立筑紫中央高等学校に合格。
そして、高校時代には生徒会長にも選出されています。卒業後は坂本龍馬の研究を志し、当時一期校だった高知大学文理学部(現:人文学部)を現役、浪人時と2年に渡り挑戦し、また坂本の墓所の近隣に位置していた立命館大学も受験したが不合格となってしまいました。
さらに、早稲田大学も受験していますが、同じく不合格となっています。
結局、二期校で合格した福岡教育大学教育学部障害児教育教員養成課程に入学しますが、7年在籍しながらも、結局中退してしまいます。
ただ、もし芸能界で失敗したとしても大学に戻れるよう、母・イクさんが休学手続きをして、学費を払い続けていたということです。
なお、福岡教育大学は中退になったものの、武田鉄矢さんの「金八先生」シリーズでの長年の活動を評価し、2008年(平成20年)に、国立大学法人理事会において、特別に名誉学士号(6月に制定されたもので、その第一号)を授与することを決め、武田鉄矢さん本人も了承し、9月12日に、授与式と学生とのトークイベントが行われました。
名誉学士号授与の条件として、福岡県の教職員の卵達に人生で学んだことを話す機会を随時設けることを求められ、本人も快諾しています。
2010年(平成22年)5月12日には福岡教育大学の特命教授(大学活性化の為に、学長の任命で無償での教育研究活動に従事できる)に就任しました。
そして、「風の又三郎」をテーマに90分の「賢治の小説は童話ではなくミステリーだ」と論じる講義を行ないました。
1972年(昭和47年)10月25日海援隊でデビュー
1972年(昭和47年)10月25日に、武田鉄矢さんは千葉和臣・中牟田俊男らと海援隊でデビューしました。
当初は全く売れませんでしたが、武田鉄矢さんが母・イクさんに向けた詫び状を歌にした「母に捧げるバラード」(1973年(昭和48年))がヒットしたため、翌年の第25回NHK紅白歌合戦に出場を果たします。
しかし、その翌年には、夫婦揃って大晦日の夜に皿洗いのバイトをしなければならないほど、人気が低迷してしまいました。
その時には、テレビから流れるNHK紅白歌合戦を横目で見て、「俺はこんな所で何をやっているんだろう」と落ち込んでいたと後年に語っています。
その後、映画「幸福の黄色いハンカチ」(1977年(昭和52年))でのさえない青年役が高い評価を得て、俳優としての新境地を開拓することに成功します。
これにより武田鉄矢さんは、海援隊としても再び注目され、ドラマ「3年B組金八先生」(1979年(昭和54年))のヒットとともに主題歌の「贈る言葉」も大ヒットすることとなりました。
1982年(昭和57年)12月の海援隊解散後は、ソロ歌手・俳優・作家として活動し、歌手活動としては、「男と女のラブゲーム」(芦川よしみとのデュエット)(1987年(昭和62年))、「声援」(「3年B組金八先生」第3シリーズ主題歌)(1988年)などのヒット曲があり、海援隊としては、1993年(平成5年)4月10日の「ドリームライブ in 福岡ドーム」のために1日だけ再結成されました。
その後、翌1994年(平成6年)に本格的にグループとしての活動を再開し、現在に至っています。
また、漫画原作者として「お〜い!竜馬」(画:小山ゆう。テレビアニメ版では武田鉄矢さんが主題歌を担当)と「プロゴルファー織部金次郎」(画:高井研一郎。武田鉄矢さん主演で実写映画化)の2作を手掛けています。
そんな武田鉄矢さんは、2014年10月7日放送のフジテレビ系「ノンストップ!」と言う番組において、1991年当時、複数のドラマに出演していて、多忙を極めていた頃、「うつ病っぽくなってしまった」と発言しました。それ以来、20年に及ぶ、うつ状態が続いたというような話をされ、そこから漸く最近、少し前向きな言葉や考えが出るようになったと発言しています。
武田鉄矢さんのうつ病の症状は?
武田鉄矢さん本人の口から出た当時の症状としては、眠れなくなった、何をやっても力が沸かない、やたら疲れる、考え方が暗くなる、滅入る、事務所が休みをくれると、ずっと仕事が来ないのではと悪い方悪い方へと考えてしまった等の症状があったと語っています。
しかし、そのような状態を家族にも、海援隊の仲間にも話さずに隠していたとのことで、そして、2011年には大動脈弁狭窄症の大手術を受けており、その当時が、心身をともに一番追い詰められていた時期だったそうです。
しかし、心理学者ユングによる言葉で救われるものに出会い、それまで「山を登り続けよう」と張り詰めていた気持ちが「飾らずに人生を下ろう」という心境に変化したそうです。
そして、漸く、うつの状態からも抜け出せたということが語られています。
しかし、世の中に「武田鉄矢がうつ病を20年も患っていた」ということが報じられたことに対し、後日、ご本人が弁明されました。そこでは、「変な誤解された情報が流れてしまったようだけれど、うつ病じゃなくて『うつっぽい状態』になっていた」というようなことを説明されています。
ですから、本当の真実のところは分かりません。
しかし、武田鉄矢さんご本人が、うつの状態で苦しまれていたとのは事実なのだろうと思います。
ただ、「うつ病」という診断を精神科医などの専門医から受けていたわけではないということなのではないだろうかと思います。
武田鉄矢さんは、現在においても、時折うつ状態に悩まされることもあるそうです。
しかし、以前よりもかなり前向きになっており、その前向きな状態を保つために、英語で日記を書くなど新しい目標を立てているそうです。