うつ状態を三度経験している五木寛之さん
五木寛之さんは、作詞家としての活動も多い、日本の小説家・随筆家です。
若くして流行作家となり、直樹賞を受賞するなど文壇の第一線を走り続けてきた五木寛之さんですが、 40代後半から現在に至るまで、うつ状態を三度経験しているそうです。
五木寛之さんの経歴は?
五木寛之さんは1932年、教員の松延信蔵とカシエの長男として福岡県八女郡に生まれ、生後まもなく朝鮮半島に渡って、父の勤務に付いて全羅道、京城など朝鮮各地に移り、少年時代は、父から古典の素読や剣道、詩吟を教えられたそうです。
第二次世界大戦終戦時は平壌にいましたが、ソ連軍進駐の混乱の中では母は死去します。
そして、父とともに幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出し、1947年に福岡県に引き揚げました。
五木寛之さんは引き揚げ後、父方の祖父のいる三潴郡、八女郡などを転々とし、行商などのアルバイトで生活を支え、1948年に(旧制)福岡県立八女中学校に入学。
ゴーゴリやチェーホフを読み出し、同人誌に参加してユーモア小説を掲載しました。福岡県立福島高等学校に入学した後は、ツルゲーネフ、ドストエフスキーなどを読み、テニス部と新聞部に入って創作小説や映画評論を掲載しました。
1952年には、早稲田大学第一文学部露文学科に入学し、横田瑞穂さんに教えを受け、ゴーリキーなどを読み漁っていました。
また、音楽好きだった両親の影響でジャズと流行歌にも興味を持っていましたが、生活費に苦労し、住み込みでの業界紙の配達など様々なアルバイトや売血をして暮らしていたそうです。
「凍河」、「現代芸術」などの同人誌に参加し、また詩人の三木卓さんとも知り合いましたが、1957年に学費未納で早稲田大学を抹籍され、また、この頃に父を亡くしています。
五木寛之さんは大学抹籍以降、創芸プロ社でラジオのニュース番組作りなどいくつかの仕事を経て、業界紙「交通ジャーナル」の編集長を務めていました。
そのかたわら、知人の音楽家である加藤磐郎さんの紹介で三木トリローさんの主宰する三芸社でジングルのヴァースの仕事を始めます。
そのCMの仕事が忙しくなって新聞の方は退社し、CM音楽の賞であるABC賞を何度か受賞しました。
PR誌編集や、「家の光」、「地上」誌などでルポやコラム執筆、テレビ工房に入り放送台本作家となりTBS「みんなで歌おう!」などのテレビやラジオ番組の構成を行い、また野母祐さん、小川健一さんと3人で「TVペンクラブ」を立ち上げます。
そして、NHKテレビ「歌謡寄席」制作、「うたのえほん」、「いいものつくろ」の構成などを手がけました。
その後、大阪労音の依頼で創作ミュージカルを書き、クラウンレコード創立に際して専属作詞家として迎えられました。
そして、学校・教育セクションに所属し、童謡や主題歌など約80曲を作詞しました。
1965年には、石川県選出の衆議院議員であった岡良一さんの娘で、学生時代から交際していた岡玲子さんと結婚します。
1966年、モスクワで出会ったジャズ好きの少年を題材にした「さらばモスクワ愚連隊」により、第6回小説現代新人賞を受賞します。
同作で直木賞候補ともなり、1967年には、ソ連作家の小説出版を巡る陰謀劇「蒼ざめた馬を見よ」で、第56回直木賞を受賞します。
同年「週刊読売」に連載したエッセイ「風に吹かれて」は、刊行後から2001年までの単行本・文庫本の合計で460万部に達しました。
1969年には雑誌「週刊現代」で「青春の門」掲載を開始し、1970年に横浜に移っています。
五木寛之さんは、1972年から一度目の休筆に入りました。
その間の1973年に「面白半分」の編集長を半年間務め、1974年に執筆活動を再開し、リチャード・バックの「かもめのジョナサン」の翻訳を刊行して、ベストセラーとなります。
1975年、日刊ゲンダイでエッセイ「流されゆく日々」の連載を開始し、このエッセイは、2014年現在も続く長寿連載となっています。
ただし、このエッセイは1週間にわたって引用が続くこともあるなど、自著や過去の連載記事を引用することが多くなっています。
1976年、「青春の門・筑豊編」により、第10回吉川英治文学賞を受賞しましたが、1981年からは再び執筆活動を一時休止し、西本願寺の龍谷大学の聴講生となり、仏教史を学ぶようになります。
1984年に山岳民の伝説を題材にした「風の王国」で、執筆活動を再開し、吉川英治文学賞、泉鏡花文学賞等の選考委員としても活躍しながら今日に至っています。
そんな五木寛之さんは、うつ状態を「今にも噴き出しそうなマグマを溜め込んだ休火山のようだった」と振り返っています。
悶々とした状態をやり過ごすことができた影には、或るノートの存在があったそうです。
五木寛之さんはうつ病の中、三冊のノートをつけ始めたそうで、まずは、「嬉しかったこと」を綴るノートだったそうです。
しかし、これは何か違う、と思い始めたそうで、次に始めたのが、「悲しかったこと」を綴るノート。
そして、最終的に行き着いたのが「ありがたかったこと」ノートであり、これは、日々どんな小さなことでも「ありがたい」と思ったことを一行、書いていくものだそうです。
このノートをつけ始めてから、立ち直ることが出来るようになった、と五木寛之さんは思ったそうです。
このノートは、孤独や「自分独りだけがこうして悩んでいる」ということを客体化することで、深刻化せずに済む、といった効果があるのではと思われます。
また、書くことで一種の感情のはけ口になるのではないか、とも思います。
うつ病患者では、抑うつ感、不安、焦燥などのために自殺することを望んだり、実際に実行してしまうという、希死念慮があります。
抑うつ感などによる苦痛の強い場合、不安・焦燥の強い場合、極端に自己評価の低い場合、罪責感の強い場合、妄想の見られる場合などは自殺のリスクが高いと考えられており、より注意が必要となります。
五木寛之さんの表した患者さんの状態である「マグマが溜まっている休火山のような状態」とはかなり異なっているかのように思えます。
しかし、実は鬱屈とした心には、今にも爆発しそうなエネルギーがあるのかもしれず、その暴発によって、自殺企図といったことへ向かってしまうこともあるのかもしれません。
「うつの時代」をどう生きていくのか、実際にうつ病を患う五木寛之さんの言葉は、非常に有益な指針となるのではないでしょうか。