はらたいらさんは、男性漫画家であり、随筆家であり、タレントでした。
はらたいらさんは、クイズ番組「クイズダービー」に出演して有名になりましたが、他の番組出演時にはクイズと異なり、トークも求められたので、それが原因でうつ病となったそうです。
はらたいらさんは、父である原 太郎さん、母である小夜子さんの長男として生まれ、はらたいらさんの姉の美和さんは元バスガイドだったそうです。
父の原 太郎さんは、はらたいらさんが生まれる前に結核で病死してしまいます。
はらたいらさんは子供のころ、餓鬼大将としての逸話を持っており、その逸話は後に「最後のガキ大将」という題で著書になりました。
さらに、その後にTBS系列にて「ガキ大将がやってきた」という題名でテレビドラマ化もされています。
はらたいらさんは、高知県立山田高等学校普通科を1961年3月に卒業しており、同校在学中からナンセンス漫画の才能を発揮していました。
しかし、上京後は木賃宿を根城として、作品を出版社に持ち込んでは断られるという生活が続き、生活苦から、高校の1級後輩の森本ちず子さんに生活費の援助を受けていました。
1963年、はらたいらさんは芳文社の「週刊漫画TIMES」の連載である「新宿B・B」でデビュー
翌1964年には、前述の森本ちず子さんと結婚します。
1972年には、「週刊漫画ゴラク」の連載である「モンローちゃん」がヒットし、
その後、1980年にサンケイ新聞に連載されていた「ルートさん」、
1988年に北海道新聞や中日新聞、西日本新聞の各夕刊に連載されていた「セロりん」、
1981年~1983年、1989年~1990年、日本経済新聞に連載されていた「ゲンペーくん」、
沖縄タイムスに連載されていた「グルくん」、公明新聞に連載されていた「ポッコちゃん」、
京都新聞に連載されていた「パトロールのパトさん」、日刊ゲンダイに連載されていた「ゴシップちゃん」
など、数多くの新聞漫画を手がけるようになります。
その他、はらたいらさんは野球にも造詣が深く、1976年から放送された、フジテレビ系列のプロ野球ニュースにおいて、2代目週末司会を務めました。
しかし、生放送中の原稿を読み終えた後に、アドリブが利かなかったといったトラブルがあったり、本業である漫画との兼ね合いがうまくいかなかったことから、わずか3ヶ月で押阪忍さんと交代することになりました。
ただ、それでもはらたいらさんの野球への情熱は冷めることはありませんでした。
そのため、1978年には大ファンであった阪神タイガースの掛布雅之さんに「掛布と31匹の虫」の作詞を手がけ、プロデュースしました。
その他、はらたいらさんが高知県内各地を訪れる「はらたいらのおらんく風土記」(テレビ高知)という人情ドキュメンタリー番組が大好評を博しました。
また、落語愛好者においては、はらたいらさんは笑福亭鶴光の弟子の名付け親としても知られています。
1992年秋口から、はらたいらさんは更年期障害に。
1992年秋口から、はらたいらさんは更年期障害による眩暈や集中力低下を訴えたため、連載を減らして、闘病生活に入ります。
その時の一連の経過については、著書である「はらたいらのジタバタ男の更年期」、「男も『更年期』がわかると楽になる」などに詳しく書かれています。
また、その時の闘病生活の経験を生かし、晩年には男性更年期障害に関する講演も行っていました。
そして、テレビのクイズ番組である「クイズダービー」に、1977年1月22日~1992年6月27日までの間レギュラー出演します。
しかし、前述の通り、クイズ番組以外ではトークを求められることが多くなり、これが原因でうつ病を発症し、公演中に倒れてしまいます。
そして、うつ病であるという診断を受けたため、その後は仕事を20%ほど減らしました。
また、ほぼ同時期に、妻のちず子さんが乳がんを患いました。
ただ、はらたいらさんはちず子さんがいないと何もできないということをよく知っていたため、早期に退院できる方法として、検査する期間が短くなる、乳房を残さない全摘出手術という治療方法を選びます。
手術後にちず子さんのもとを訪れたはらたいらさんは、チューブ類が繋がれた妻の様子を見て卒倒してしまいます。その後、はらたいらさんは意識を失ってしまったため、妻とともに入院することになります。
退院後は、夫婦2人で旅行をするなどをして楽しんでいましたが、それも長くは続かず、高校生時代から患っていた肝硬変を悪化させてしまいます。
そして、はらたいらさんの飲酒量が多かったことなどもあり、肝硬変はすでに手遅れの状態でした。
病院において、はらたいらさんはナースコールすら押せないほど気弱な一面を見せ、2時間おきに妻のちず子さんに電話をしていたそうです。
このため、ちず子さんも不眠の日々が続き、時にはこっそり病院に泊まりこむ日もあり、「生まれ変わってもお前と夫婦でいたい」という言葉が、はらたいらさんとの最初で最後の夫婦らしい会話であったということです。
そして、はらたいらさんは2006年11月10日、肝臓癌により、埼玉県富士見市の病院で享年63歳で死去しました。
当初、はらたいらさんの死因は肝不全と伝えられていました。
しかし、2006年9月に検査入院した際に、元々肝硬変であった上に末期癌であったことが判明したということです。
はらたいらさんは「クイズダービー」において、27問連続正解という偉業を達成しましたが、正解し続ければし続けるほど、プレッシャーは増していったそうです。
そのため、家庭内では常にピリピリとした緊張状態であり、「クイズダービー」にはらたいらさんが登場してから3年間、気を遣って妻から声をかけるということはなかったそうです。
そのような心労や、「クイズダービー」が終わってから次々と舞い込む仕事に追われた過労で、はらたいらさんは倒れてしまいます。そして家にこもりっきりとなり、うつを発症してしまいます。
「クイズダービー」では、はらたいらさんがそれほどまでに緊張状態であったとは思えませんでしたが、かなり無理をされていたのだろうと思います。
心よりご冥福をお祈りいたします。