アーネスト・ヘミングウェイさんの場合。【うつ病の芸能人・有名人】
事故の後遺症による躁うつ病に悩み、自殺したアーネスト・ヘミングウェイ
アーネスト・ヘミングウェイさんは、1954年にノーベル文学賞を受賞した、アメリカの小説家であり、詩人です。
アーネスト・ヘミングウェイさんは、前述のノーベル文学賞を受賞した「老人と海」や二度にわたり映画化された「武器よさらば」などの数多くの作品を残しましたが、その一方で、躁うつ病も患っていたそうです。
アーネスト・ヘミングウェイさんの経歴は?
アーネスト・ヘミングウェイさんは、現在のシカゴである、イリノイ州オークパークに生まれました。
アーネスト・ヘミングウェイさん自身は6人兄弟の長男であり、その母は元声楽家で、父は医師です。
その父は活動的な人物であったため、アーネスト・ヘミングウェイさんは、小さい頃からボクシングや釣り、狩猟などの手ほどきを受けていました。アーネスト・ヘミングウェイさんは、高校卒業後の1917年にミズーリ州のカンザスシティの地方紙である「カンザスシティ・スター(英語版)」紙の見習い記者となりますが、すぐに退職してしまいます。
その翌年、アーネスト・ヘミングウェイさんは、赤十字の一員として、第一次世界大戦における北イタリアのフォッサルタ戦線に赴きます。
しかし、その北イタリアのフォッサルタ戦線において、アーネスト・ヘミングウェイさんは、重傷を負ってしまいます。
第一次世界大戦後、アーネスト・ヘミングウェイさんは、カナダ・トロントにて「トロント・スター」紙のフリー記者をつとめます。
そこで、特派員としてパリに渡った際、ガートルード・スタインさんらとの知遇を得て、小説を書き始めました。アーネスト・ヘミングウェイさんは、行動派の作家であったため、1930年代には人民戦線政府側として、スペイン内戦にも積極的に関わりました。
そして、その経験を元にして、行動的な主人公をおいた小説を自分のものとしていき、自身の作品の中で「誰がために鐘は鳴る」、「武器よさらば」などの作品は、そうした経験が生かされた作品となっています。
そして、このような作品によって、当時のハリウッドに映画化の素材を提供していました。
アーネスト・ヘミングウェイさんの短編作品には、簡潔文体の作品が多くなっています。
これらの作品は、ダシール・ハメットさん、レイモンド・チャンドラーさんと、アーネスト・ヘミングウェイさん以後に続いていく、ハードボイルド文学の原点ともされています。
1954年には、「老人と海」が大きく評価され、ノーベル文学賞を受賞しましたが、同年、二度の航空機事故に遭ってしまいます。
その航空機事故で、アーネスト・ヘミングウェイさんは、二度とも奇跡的に生還しましたが、重傷を負ってしまったため、ノーベル文学賞の授賞式には出席できませんでした。
そして、この航空機事故での負傷以降、アーネスト・ヘミングウェイさんのこれまでの売りであった肉体的な頑強さや、行動的な面を取り戻すことはありませんでした。
アーネスト・ヘミングウェイさんは、晩年、前述の航空機事故の後遺症による躁うつ病に悩まされるようになりました。
その後、執筆活動自体も次第に滞りがちになっていき、1961年、アーネスト・ヘミングウェイさんは、ショットガンで自殺しました。
自殺当初は、手入れの際に起きた暴発による事故死と報じられましたが、その後、アーネスト・ヘミングウェイさんの遺書が発見されたため、自殺と断定されました。
アーネスト・ヘミングウェイさんは、前述の航空機事故以降、精神的に気分の変動が激しくなることが多くなり、上機嫌かと思うったらすぐに塞ぎこんでしまうということもあったため、有名なメイヨウ・クリニックに入院し、電気ショック療法を受けました。
しかし、うつ状態から回復できずに、前述の通り、ショットガンで頭を撃ち抜き、自殺してしまいます。
このようなアーネスト・ヘミングウェイさんの、気分の変動が激しいという精神症状は、躁うつ病の典型的な症状といえます。
アーネスト・ヘミングウェイさんの場合、この激しい気分の変動という症状は、手に負えないレベルまで達してしまったそうです。
アーネスト・ヘミングウェイさんは、女性、酒、狩猟、釣りなどを人生で愛していたとされていますが、最も情熱を傾けていたのは文学だったといわれています。
しかし、うつ病の療法である、電気ショック療法の副作用では記憶の喪失があらわれるため、過去の体験からインスピレーションを得て作品を書いていたアーネスト・ヘミングウェイさんにとっては、治療を続けることは何も書けなくなることを意味しました。
文学が生きがいだったといえるアーネスト・ヘミングウェイさんにとって、これは死ぬほど辛い事だったのではないでしょうか。
心よりご冥福をお祈りいたします。