竹脇無我さんの場合。【うつ病の芸能人・有名人】
40代後半頃にうつ病を発病した竹脇無我さん
竹脇無我さんは、石原プロモーション、タケワキプロダクション、イザワオフィスと所属事務所を変えていき、最終的にはアクターズ・セブンに所属していた日本の俳優です。
竹脇無我さんは、クールな二枚目俳優として、テレビドラマ等で活躍していましたが、小脳出血のため、2011年8月21日に死去してしまいました。
享年67歳でした。
そんな竹脇無我さんは、40代後半頃にうつ病を発病したそうです。
竹脇無我さんの経歴・芸歴は?
竹脇無我さんは、アナウンサー・ニュース映画解説者をしていた竹脇昌作さんの三男として生まれ、当初は「宇宙」という名前を父からつけられる予定でしたが、母の反対により「無我」という名前になったそうです。
竹脇無我さんは、青山学院中等部・青山学院高等部を経た後に、青山学院大学法学部を卒業しましたが、父である昌作さんの自殺、元ラジオ関東アナウンサーの長兄である竹脇義果さんの半失明状態、さらには次兄が脳腫瘍で18歳で早逝するなどの事が重なったたため、苦しくなっていた一家の経済状況を立て直すべく、映画界入りすることを決意しました。
竹脇無我さんは、1960年に松竹映画「しかも彼等は行く」で俳優としてデビューし、1965年には、「アンコ椿は恋の花」で初主演を果たしました。
その後、映画「人生劇場」、テレビドラマ「姿三四郎」への出演によって、竹脇無我さんは一躍スターとなり、クールな二枚目のイメージを確立させ、特に「人生劇場」においては渡哲也さん、高橋英樹さん、田宮二郎さんらを抑えて主演を務めてました。
また、一時期、石原プロモーションに在籍していた期間もありましたが、1971年に退社しています。
1960年代後半に放送されていた「ヤング720」では司会を担当し、この当時に知己を得た西郷輝彦さん、関口宏さん、松山英太郎さんとは晩年まで親交があったそうです。
また、テレビドラマにおいては加藤剛さんや森繁久彌さんとの共演が多くなっていたため、親交も深かったようです。
竹脇無我さんは、時代劇やホームドラマなど主として幅広く活躍しており、美声であったことから女性ファンが非常に多く、知的で優しいイメージが定着して「理想の夫ナンバーワン」とも呼ばれました。
しかし、外面と内面とのギャップに悩まされていて、気の休まらない日々が続いていたとのことです。
竹脇無我さんは、徐々に役者として円熟味が増してきていましたが、その矢先、友人の松山さんが食道癌で1991年に死去したショックと、二枚目を演じるストレスなどにより、49歳ごろから自殺の衝動を酒で抑え始めるようになりました。そして、心療内科において診察を受けたところ、うつ病と診断されました。
その際、抗うつ剤と眠剤でうつ度が軽くなったので、竹脇無我さん自身も、周囲もうつ病の病状をやや甘く見ていました。
そのため、半年の入院後に復帰することをマネージャーと病院に伝え、1度は退院したものの、再び落ち込みが激しくなり、また自殺の衝動を酒で抑える事態となってしまいました。
竹脇無我さんは、テレビドラマや舞台にはなんとか立ち続けていました。
しかし、次第に台詞が頭に入らなくなってしまい、声をテープに吹き替えなければならないほどに悪化してしまいました。
その後、糖尿病と高血圧症も併発してしまい、再度入院しました。
その入院中に、娘からのサポートや加藤剛さんや森繁久彌さんから貰った手紙が心の励みとなり、うつ病の治療に専念するようになります。
その後、8年間の闘病生活の末に竹脇無我さんは復帰し、食生活も改善して闘病体験を語れるまでに回復しました。
しかし、2009年に父と慕っていた森繁久彌さんが亡くなったことによる精神的ショックもあり、それ以後再び落ち込みが激しくなってしまいました。
そして、食生活も改善を続ける一方で、一度は止めた飲酒と喫煙を再び続けるようになってしまい、うつ病と糖尿病時に併発していた高血圧症の症状も再度現れるようになってしまいました。
そして、2011年8月21日の同日未明に、竹脇無我さんは自宅内で意識不明の状態で発見されました。
すぐに、東京都大田区の東邦大学医療センター大森病院に搬送され、報道では集中治療室で入院中と伝えられました。
脳幹出血の症状があったため、集中治療室での治療が続けられていましたが、同日14時5分、小脳出血により東邦大学医療センター大森病院にて竹脇無我さんは死去しました。
竹脇無我さんはうつ病について、うつになって良かった、うつになって役者としてのイメージがハッキリしてきたと語っています。
また、「病気のなかにはきちんと治療しても、発症前と比較すると心身のパワーが低下するものが多いがうつ病は違い、ちゃんと治療すれば、病気になる前より、もっと元気になる。
うつ病になることで、うつ病専門の医師や入院仲間等との出会いがあり、今までとは違う世界が見られるので、前より広い視野を持つことが出来た。
それによって自分のやりたい役のイメージがはっきりしてきて、そこを目標にしていこうという気持ちになれたことはうつ病になったおかげだ。」とも語っています。
竹脇無我さんは、その他に、うつ病以後は必要以上にかっこつけるようなことはなく、「等身大」で生きられるようになったとも語っています。
うつ病になることによって、自身の事を見つめなおすことができ、それが良い方にいったのではないかと思います。
うつ病もきちんと治療することができれば、悪い事ばかりではないのかもしれないと感じました。